2010年3月26日金曜日

3週間凍結していたおバカさん

ずっとブログを凍結してしまい申し訳ないです。



最初は夜ファーストフードに行って書いていたのですが、まぁ安全上あまり宜しくないということと、ただ単純にパソコンの為だけに外に行くのがおっくうという理由で更新していませんでした。まぁ一瞬で終わるメールチェックやフェイスブックに比べると、ブログは時間がかかったり・・・・・・・・・・・・・・・




うん、言い訳だな、こりゃ・・・・・・・・・・










しかも親にメールを送らないでいたらAJに問い合わせがいってアイセックにも迷惑かける始末。









ああー、こたろうさん、おたんこなすは間違いなくぼくのことですわ



もう新歓期はこき使ってやっください。




気がつけばあと5日で帰国することになってしまいました。報告したい事はたくさんあります。最後のブログのあとにも結構いろんなことがありました。









こうじゅんがきたり、ベルトホルドまで旅行者でやってきたり・・・・・wwwwww








まだ終わっていませんが、自分の中でざーっくり研修を総括してみたいと思います。







最初はフィリピンに来て日本人の多さにビビり、なんかこれが海外インターンシップって言えるのかな、という感じの若干鬱が入ったスタートでした。













でも徐々に周りの話を聞いたりしながら、そして仕事が本格化していく中で本当に心からここにきて良かったと思うようになりました。











実は2か月の研修の中で本当に心揺さぶられる時が2回だけありました。






一つは3/14に国籍訴訟プロジェクトの原告団のミーティングがあったとき。既に国に提訴を済ませている第一陣の原告団(TNのクライアントではありません)と、TNのクライアントで構成される第二陣原告団が事務所に集まり、意見交換、情報共有を行ったのですが(TN側のクライアントを集めたのは僕なんですよーww)、そこで、「この国籍喪失制度(国籍法第12条を指します)は国が100年前からとり続けていたポリシーが表れている。我々が勝てば、国に対して100年間の罪を認めさせることができる。」的な議論になっていたのです。マニラ新聞社も交えてのことですから、若干プロパガンダみたくなっているのは事実ですが、たった数人の日本人と、うちの人はいいけど何を思ってるのかよくわからないwwフィリピン人のクライアントが日本の制度を変えられるかもしれないと思うと、本当に鳥肌が立ちます。学生の未熟な身分でこんな大きな動きに携わる事が出来たのは本当に光栄なことですね。










もう一つはスタツアの時の友人を訪ねリパという地方都市を訪れた時。アイセック・リパには一人日本人の名前を持つ女の子がいるんですね。名字も名前も日本人なので、最初は純日本人かと思ったのですが、実はハーフらしいんです。偶然そのことをニコロという今のLCPの男と話していたら、彼曰く、その彼女は生まれてこのかたお父さんに会ったことがないというんです。









なんかタブーな話らしく、正直どこまで本当かは分からないのですが、どうやら養育費なども受け取っていないようで、もし彼の話が本当なら完全に典型的なJFC問題のケースに。









まさかアイセッカーにそういうケースが及ぶとは夢にも思っていなかったので、聞いたときは本当にショックだったのを覚えています。









まだまだ話したい事はたくさんあるし、研修もあと五日残ってます。今原告の数が東京事務所の期待値に届いておらず、マニラに圧力がかかっているところです(マジで)









「たくろー君もしかしたら帰れないかもねーwwww」と言われている今日この頃、ラストスパート頑張ります。














ps くりさんとちゃくがモラルハザードに関して話し合ったとかwwwww









ちゃく、遊びもいいがほどほどにな・・・・・・・・・・・wwwwww









りこしゅん、台湾でリア充してるらしいじゃないか。報告たのしみにまってるぞい

2010年3月2日火曜日

ビガン

今週末は研修生皆でルソン島北部「ビガン歴史地区」に行ってきました。




ビガンはスペイン統治時代の建物が残る地域で、日本でいえば京都みたいな場所。1999年には世界文化遺産にも登録されました。



問題は移動で、マニラからバスでおよそ10時間・・・

まぁロシアやウクライナを1日電車で旅した方々もうちのLCにはいらっしゃるので余り偉そうなことは言えませんが、マイナーリーグの移動じゃないんだしせめて電車位走ってくれていたらなぁという感じ。



マニラ出発日は一緒に研修していた台湾人の女の子が帰る日だったので、彼女に挨拶を済ませてから朝8時頃出発。前夜フィリピンアイセッカーと午前3時半まで飲んでいただけにややきつい朝の目覚め・・・・

{ちなみに前日はアイセックとホンダ・フィリピンのパートナーシップイベントがあり、ホンダ・フィリピンで働いている日本人の方とも会えて有意義な時間を過ごせました。マニラの大気汚染は本当に深刻で(未だに俄然ディーゼル派。車の後ろから白い煙モクモク。)、ホンダもなんとかエコに取り組んでいる模様です。)

10時のバスに乗りビガンに着いたのは20時。その日は何も出来ずホテルにて宿泊。この時バスの中で会った何とも親切なおばちゃんがホテルの世話をしてくれ、スムーズに安い部屋をゲット。



翌朝は7時に起き、ビガン探検に出発。



まずはカレッサと呼ばれる馬車にのり、ビガンをとりあえず一周。立ち寄った店でハロハロをはじめとするローカルフードを食べる。ビガンは本当にスペイン*フィリピンと言った感じの何とも不思議な街並みで、欧風建築の建物の脇から熱帯植物が生い茂るそのさまはさすがアジア唯一のカトリック教国。





夕方になるとなんと前日ホテルを世話してくれたあのおばちゃんが自分が経営?する会社のオフィスに僕らを案内してくれ、そのまま職員の方一同と夕飯に出発。実は夕飯のメニューは既にランチで食してあったのだが、まぁそこは目をつぶり(笑)、おいしくローカルフードを頂きました。



その後エアコン効きすぎ前のおっちゃん背もたれ後ろに倒し過ぎ前で赤ちゃん泣きすぎのバスに再び10時間揺られマニラへ。

今日はボスの誕生日で仕事は休み。最近余り働いていない私ですが、また明日から仕事をがんばります。



仕事の方はというと、書類は徐々に集まり始め、7人位は原告として行けそうな雰囲気です。問題はパスポートの期限切れとフィリピン人特有の適当さwww

電話回線がしょぼすぎてかけてもかけても繋がらない毎日にイライラしつつも、宣言通りクライアントさんが書類を持ってきてくれた時は本当にうれしくなります。



どうやらフィリピン人と言うのは先を見通すのがあまり得意ではない傾向があるようです。特にJFCのお母さんなどはあまり経済的に豊かなほうでないこともあり、何年もかかる訴訟にはあまり乗って来ない。その日の暮らしの方が大切ですからね。



自分的にはそんな中で長期的に将来の事を見つめて訴訟に参加してくれる人の為には一生懸命やりたいと思うのですが、ことはそんなに単純ではありません。



こないだ電話をかけ書類を持ってきてくれたかたに「これで書類は揃いました。あなたは晴れて原告となります」的な事を言ったら、「終わるまで何年かかるの?」と聞かれ、「おそらく最高裁まで行くので数年はかかりますね」と言ったら「数年!?はぁ~・・・」みたいな感じ。ぼくがどんなにこれは個人ではなく国を相手にする裁判なので簡単ではないのですと言ってももう聞いてない感じwwwww



聞くところによるとプロジェクトを立ち上げる時はわざわざ日本から弁護士の先生がフィリピンに来てして説明をしていったそうです。話はちゃんと聞こうよ~wwww



最初はクライアント可哀そうだなとしか思わなかった僕も、最近はいろいろとクライアントの方の問題に気付かされることが増えています。



まぁ人間が関わることですから仕方のない事なのかもしれませんが。

2010年2月24日水曜日

on this weekend

今週末から月曜にかけてのこと話しまーす。


まずは土曜日。DAWNという同じJFC問題に取り組むNGOで日本人が研修していると聞き訪問。

日本語クラスを見学し、自分も少し手伝いましたが、思ったより教えるのは難しい!特に英語もよくわからない小さい子には本当に苦労しました(こどもは苦手なのです・・・・・)。結局僕は敵前逃亡し、隣にいた男性に個別指導をつけていましたwwww
かれは日本で多国籍料理店を開くことを夢見る22歳。僕もフィリピン料理は大好きで、ぜひ日本でフィリピンテイストのレストランを開いてよ!みたいな感じで話していたのですが、こんな話どこかで聞いたことありません?
そう、去年日本で放映された松潤、ガッキー主演のドラマ「フレンズ」ですwwww
彼もそのことを言っていて、凄い偶然、あれはでもなかなかいいドラマだったよと言ってました。

その後はアイセックのイベントに招かれ近くの大学へ。

Outgoing EPs に対するセッションで、フィリピンのMCも日本と同じように「自己、研修国、母国へのインパクト・・・・・」などなど力説していました。

僕もゲストスピーカーとして前でスピーチをする機会を与えてもらい、自分なりに研修について語ってきましたよん。「日本に来るからには誰も英語はしゃべれないと思え!それでも君らはそこで何らかの差異を生み出すことを期待されているのだ!」的な感じでww





その後は前のブログでも書きましたが、うちのアコモでどんちゃんwww

日曜日は研修生のさとしさんとお出かけ。
まずフィリピンなのにモスクに行き、少数派のイスラーム教徒から思わぬ歓迎を受ける。

Someday Islam will embrace you!! って言われた。まぁ日本だったら戒律もそんなに厳しくないし、ムスリムに改宗するのも悪くないかな・・・・



その後は華僑博物館へ。現在フィリピンで絶大なる影響力を持つフィリピン華僑。アイセックの華僑のメンバーは社長の子息ばかりで、仲良しのグレン君は「こないだ誕生日にダッドがフォルクスワーゲン買ってくれたんだけどさぁ~、ホイールわざと花柄にしてんの!ほんとクレイジーwwww」と笑っていましたwwwwww

今や流通・小売、航空、金融、食品などフィリピン最大手の企業はみな華僑資本です。人口比率で言えば全然少ないのに、金は皆彼らが持っています。アイセックの中でも、華僑率は異常に高いです。



月曜日はラファエルにつれられてアメリカ人墓地に。第二次大戦中にフィリピンで命を落としたアメリカ人17000人が眠っているのですが、17000のクロスが整然と公園を囲むその様は圧巻の一言。
お墓なのに美しいとさえ思いました。。。。。。(ユダヤ教徒の墓にはダビデの星が)


今回は写真盛りだくさんでお届けしました~

ps こうじゅん今度来るらしいじゃん? Let's enjoy the Philippines ^ ^

2010年2月21日日曜日

長いかも・・・?


ちわっす。


ジュリアンさんにくそまじめといわれたのでオフのことも少し。

だいたいオフはフィリピンのアイセッカーと会ってどっかいったりしてます。

とくにスタツア時代からしってるケビン・グレン・ラファエルとはほぼ毎日会っていて、相変わらずのホストの良さには感心します。(手前がケビン、奥がグレン。ケビンは日本語が少し出来て、いつも事あるごとに タクロー バカッ、ちょーバカッ! って言ってくる可愛いやつですww)

昨日はうちの4人部屋に3大学2から20人近くのフィリピンアイセッカーが訪れどんちゃん騒ぎwww

かつてスタツア時代に誰かさんに恋をしたニコロ君も健在で、その話はLC内では皆が知っているらしいwwwwwwww




ああー、でもまたここからちょいと長いごみ山の話ww

こないだあまり話せなかったので、ごみ山パヤタスについて少し詳しく書かせて下さい(でもこれ以外にもあるんですよ)
まずパヤタスといういわばただの(見方によってはただのではないけど)がこうして有名になったのは、2000年における崩落事故があったからです。ゴミの積み上げ過ぎに何かしらの外的要因が加わってゴミ山が崩壊、スカベンジャーと呼ばれるゴミ拾いで生計を立てる人々が1000人以上ゴミで生き埋めになり亡くなりました。

パヤタス付近でtragedyと言えば説明不要この事故を指します。



ここでパヤタスの運命は大きく変わります。ケソン市といくつかのNGOが入り、ゴミの量のコントロールを始め、ゴミ山の角度は崩落の危険がない23~25度に保たれるようになり、ゴミからでるガスを用いたバイオガス製造が始まり、バイオガスを用いて電気が作られるようになり、その電気とゴミ山のプラスティックを用いてレンガや金属が作られるようになり、近くのコミュニティーの道路は舗装されました。





でももちろん、こんなハッピーハッピーな感じで物事は進みませんよね。



まず、ゴミの量はコントロールされているといっても、それはパヤタスに入るゴミの量がコントロールされただけで、他のゴミ山にいくらでも運び込まれている。パヤタスにおけるリサイクル活動の活発化とは裏腹に、新たにもっと環境の悪いゴミ山が裏で出来ているわけです。パヤタスは一種のケソン市による広告塔であり、入口にはwelcome と書かれた綺麗な看板がある。wwwwwww



でも実際は問題ばかり。そもそもパヤタス付近のコミュニティの住人は、もともと他のスラムを違法に占拠していたスクォッターの住人で、政府から住居を破壊されて立ち退きを命じられ、政府からここに送られてきました。しかし大きな問題として、ここの住人は住宅を担保にとられており、土地の値段を一定期間までに支払えないと再び同じことが繰り返されることになるわけです。しかもそれは個人としてではなく、コミュニティー全体としての担保なため、ほぼ条件を満たすことはムリ。せっかくここでコミュニティーを築いても、またいずれどこか別の所に移され、一から住居を作り、コミュニティーを形成しなければならなくなるわけです。

それは彼らはもとは不法占拠者で、当然じゃんとかいう人もいるかもしれないし、まぁ一理あるのかもしれないけど、それでも彼らはここに移されたとき、何もなかった所からなんでもあるコミュニティを作ることをやり遂げたわけで・・・・・・・・

フィリピンにはまだ貧困層を吸収できるだけの福祉制度みたいなものが整っていない。義務教育も場所によっては形骸化しているし、こうした人々に住居も全く提供できない。



ああでも、日本も最近派遣切りの人が住居にも住めない状態になってますよね。





崩落事故により1000人以上が犠牲になったわけです。当然市、国にはそうした状況の原因を作った責任があります。実際事故のすぐ後に国に対して訴えがおこされました・・・が、10年たった現在まで、進展は何もしていません。さらに国は被害にあった子供達に対し教育援助の奨学金制度を作りましたが、いつの間にかその受益条件に80%以上のスコア取得というが加えられていたらしく、結局普通の奨学金と変わらない代物に。





最後にこんなエピソードを紹介します。



ドリアンの名産地で有名なミンダナオ島からマニラに送られてきた人はこっちに来て一つ言いことがあると言いました。

それはなぜかと言うと、故郷では高すぎて食べられないドリアンがマニラでは食べられるからなのです。



ここにはゴミ山があり、廃棄されたドリアンの中から食べられるものを選んで食べればドリアンを味わうことが出来る、そういうことです。





ここであぁただ可哀そうだね~といってるだけではアイセッカーじゃありませんよね。





パヤタスに僕らを案内してくれたリサさんは、フィリピンの問題点を1.皆が自分の土地を持っていないこと 2.外国資本が入ってもフィリピンの為に資本が動かない事と言っていました。



例えばフィリピンにいるとたくさんの日本ODAのマークを見ます。



別にODAに関して全てフィリピンのために寄付するべきだとはいいません。Betterな手段は他にないか、どこで妥協すべきなのかを考えてみる、そういうことですかねっ

 
 
ああ~~なげえ。しかもだいたいが説明になっててつまらないことうけうり。
 
 
ここまで読んでくれたあなた、サラマー、マハルキタ!!今度何かおごりますwwwww

2010年2月20日土曜日

A little bit more about my internship

こーんばーんわ。


今日は少し時間があるので、いつもの手抜きブログの反省も込めて少し多めに書きたいと思います。


今日は僕が責任者(一応)を務める嫡出子国籍再取得プロジェクトについて

現在日本の法のもとでは、外国人と日本人のハーフ、海外で出生した子は、親が出生後3カ月以内に日本の市役所に出生届けを出せば日本国籍を取得できることになっています。つまりです、裏を返せば、例え日本人を親に持とうとも、3か月以内に出生届けを提出しないと日本国籍を喪失してしまうわけです。
同じハーフでも日本で生まれた場合と海外で生まれた場合とで何が違うのか?(日本はアメリカとは異なり出生地主義はとっていないはず)そもそも3か月って何なのか?

現行法では国籍再取得のためには20歳以上になる前に日本で半年以上生活し、所定の手続きをしなければなりません。その半年間は働くことが出来ないうえ、日本に身元を保証する保証人が必要になるのですが、JFCの子たちの場合、もともとが貧しいうえ、保証人などのコネもない場合が多く、現実問題再取得は不可能に近いのです。
その制度を変える。それがこのプロジェクトです。

今一番の問題は裁判のための書類がなかなか集まらないということ。彼女たちにとってはパスポートの申請費用はもちろん、オフィスまでの交通費ももったいないのです。今日電話をかけたクライアントさんは仕事がなく、パスポートの申請は今のところ出来ないと言っていました。

現在書類がそろっているのは4人。書類を一つでも出して原告に加わる意思を見せている人はあと12人います。全部出さないとせっかくお金と時間をかけて出してくれた書類も無駄になってしまう。
とにかく、自分が帰る前に一人でも多く集めたいですね。

ではそもそもなぜ国籍にそこまでこだわるのか。
代表の河野さんは僕らに「国籍をとれば日本に何の障害もなく行けることになる。でも日本に行くことが必ずしもいいことではない。そこには人身売買や文化的差異の問題が関わってきている。それでもなぜ彼らに日本国籍を与えてやりたいかといえば、それが彼らの権利だから。彼らは半分日本人の血を引いている以上日本国籍を持つ権利を有しているはず。日本に行く以外にも、日本国籍をもっているだけで選択肢は広がる。」と言いました。

帰国子女の人などは分かるかもしれませんが、日本のパスポートは世界的にかなりの信用性を誇っています。フィリピンでは駅やデパートのフロアに入るごとに荷物検査があるのですが、前のいかにもフィリピン人な人が入念に鞄を調べられる一方で、僕らはほとんどスルーに近い。これも一つの日本の信用なのかもしれません。

今JFC問題に関して多くが動いています。フィリピンではバティスやドーンといったNGOが女性・子供のエンパワメントに取組み、JFCの子供たち自身もユナイテッドJFCという取り組みを始めている。日本では僕がボランティアをしていたJFCネットワークが、ボランティアのJFC弁護団とともにこの問題に法律的観点からアプローチしています。

今でも時としてGlobal Environment がうらやましくなる時があります。
なんか日本人が多いってだけで、「えー、なんかつまらなそうですね」的な表情をこっちで会うEPにされることもあります。
でも、日本人として、日本に根を持つ大きな人権問題にこうして関わることが出来ることはなかなかない経験だとも思っています。うん。

ps 今日は写真貼るつもりだったのですが、部屋にコードを忘れてしまいましたorz

今度はまたごみ山についてでも詳しく書けたらいいな^^

2010年2月16日火曜日

Smokey Mountain

どーもー、なんか他のEPブログ読んでても鬱ってんのおれだけみたいだなwww

でも皆のコメントや一緒にいる研修生と話す中で、違う考えが出てきました。
残り6週間、残金2万円ちょっと、もう頑張るだけです。うん。




昨日はかの有名なフィリピンのごみ山、スモーキーマウンテンに行ってきました。

2000年の崩落事故で1000人がなくなって以来市やNGOが環境の整備に取り組んでおり、逆に市の取組みの広告塔のように使われている場所でもありましたが、NGOの人とコミュニティのなかに入り詳しく話を聞くと、やはりそこには大きな矛盾を垣間見ることができました。


僕がごみ山を前にして率直に思ったのが、2000年の事故の犠牲者は、あんな臭い生ゴミに生き埋めにされて死んでいったんだな、ということです。

ごみ山は僕らが前日にわざわざ長靴を買い、服は捨てるのを覚悟で入るような汚い場所です。そこで人間が埋められるって何なのかな、とまず思いましたね。


でも意外にコミュニティーには子供の笑顔があふれ、活気に満ちていました。
そうした表面的な明るさと根本のところの厳しさ。そんなギャップに満ちた場所がスモーキーだった気がします。

帰ったらたくさん話しましょう。スカイプも大歓迎です!!

今度もしかしたらもっと荒廃した場所に行くことになるかもしれません。
そしたらまた報告しやっす。

今オフィスの昼休みを使って書いているので、詳しいことも言えず写真も貼れず申し訳ないです。

アコモにネットがないのは本当に不便ですね。

ではではまたまた。

2010年2月14日日曜日

大いなるジレンマ

長らく更新せずにいてすみません。

アコモがかわりネット環境が悪くなってしまったのです。



フィリピンに来て一週間が過ぎました。


前回のブログにだいたいの業務内容は書きました。だいたいはあんな感じです。


より詳細を言うと、僕は今肩書だけはちょっとしたものをもっています。


それは、嫡出子国籍再所得プロジェクトの責任者です。
今日本では、出生届の遅れのために日本国籍を喪失したJFCに国籍を取り戻す訴訟が起こっています。
(嫡出子でも、海外で生まれた場合3か月以内に日本の市役所に出生届を出さないと国籍を喪失してしまうのです。)

今日本では第一陣の原告団が国を相手取り法改正の訴訟を起こしており、マリガヤハウスの子供たちもそれに引き続き第二陣として原告団を形成する予定になっています。

もしかして上手くいけば法律の改正に携われるかもしれない状況にあるわけです。


・・・・とここまで聞くとなんだかこいつ凄いことやってんじゃないの??と思うかもしれません。


しかし、現実問題今は僕にとってかなり試練の時でもあります。



まず、アイセック的なグローバル環境を感じることはほとんどありません。宿舎は日本人の他の研修生と共同生活だし、職場でも日本語が通じます。

仕事もたまにのクライアントとの面談を除けば翻訳が主になってしまっていて残念ながらあまりやっていて楽しいものでもありません。
責任者の肩書もまぁ肩書だけって感じですしね。


なんかどうしてもそういう言ってみれば環境を無理に避けようとして変に同僚の研修生と距離を置こうとしている自分もいる気がする。


もちろんある程度こういう環境は覚悟してたことだし、それでも自分は法関係の職場に行きたいっていって今回の職場を選んだのは覚えているけど、まさかここまで日本だとは思っていなかった。


とりあえず、今の僕に出来ることはできるだけ早くプロジェクトを片づけて、自ら動ける環境を作ることだと思います。

プロジェクトの意義は自分でもちゃんと理解しているし、それを任されて終わらせる前にあれがやりたいこれがやりたいというのは自分でも嫌。
まずはマリガヤハウスにきちんとインターンとして貢献してから自分としてやりたいことをやらせてもらおうと思う。

僕の研修だとただ行って帰って来ただけでは何も語るもののないものになってしまう気がする。

「僕の周りにはインド人と、ハンガリー人と、ブラジル人と、トルコ人と、・・・・がいて、夜お互いディスカッションしたら本当に価値観の違いに気付かされた」、とか


「マックもスタバもなくアフリカで黒人に囲まれて・・・・・」とかそういうことを語ることは全くできないと思う。


僕の場合何かしらのインパクトを残さなければ絶対自分で納得できないと思う。一つは勿論プロジェクトへの貢献、それプラスαも必要。


頑張らねば・・・・・・と自分に言い聞かせる今日この頃。

なんかどんより系ですみませんです。